無個性

個性的、というカテゴライズによる無個性化

わたしが愛した全てのものに

年々頻度は下がるけどその分深度の上がる希死念慮

そこに囚われて世界に帰れなくなるまでにあとどのくらいかかるんだろう。

進展しない関係、凪みたいな毎日。美しいね。まるで春の日みたいな。でもわたしが望んだものじゃない。

先月29になった。会いたいよ。今の君に。でも会ったら全部終わりなんだろうな。だから会わない。たぶん今でも愛してる。

ルーゲルダ

28歳になりました。このブログは24歳頃で更新を止めてしまったから、その間にわたしは4つ歳をとったことになります。

 

大学を卒業して、1年モラトリアムして、社会人になって、転勤して、結婚して、また転勤して、今は休職中。

 

この4年間で別の人間になったんじゃないかと思うくらい自分は変わったと思う。青年期が終わって、自己を確立させられたとでも言うべきか。社会人として働くことも、法律上の婚姻関係を他人と結んで共同生活を営むことも、限りなく現実的な作業の連続で、そこに美しさは見いだせない。でもわたしは美しさを見いだせなくてもそういう生活をしたいと自分で選んだ。文章を読むことも書くことも限りなく少なくなったけれど、仕方ない。今までできなかったことができるようになったけど、それはそれなりの代償を支払ったから。

もう元には戻れない。

 

休職中に認知行動療法を受けていた。寝ても醒めても己と向き合わされて辛かった。わたしのアウトプットの源はどうすることもできないし何と言うこともできない気持ちや衝動だったけど、認知行動療法はそれら全てに名前を付けて自分で飼い慣らす訓練だったから、わたしはわたしを飼い慣らしてしまった。全てに名前が付いて、自分で自分をおおよそ理解できるようになって、落ち込むことやどうしようもない衝動に振り回されることもなくなったけど、もう世界は輝かない。コントロールできない己が、己の中の手が届かないような深いところに横たわっているからこそ、同じように己では支配できない己の遥か頭上の広い広い世界が一層美しく見えていたのだと理解した。

 

どんなに心が動きそうでもそれに全て名前をつけさせられて興ざめだ。

もう生きていくのつまらないな。こんな世界で生きていて何があるっていうんだ。

 

ルーゲルダ花言葉は、薄れゆく愛。

ずっと君を愛してるよ。でも君と生きていっても幸せになれないからわたしは別の人と人生を歩むことにしたんだ。君といても道は地獄にしか繋がっていないことは明白だった。

それでも良かったんだよね、ほんとうは。地獄への道を2人で歩けば良かったんだよね。もう死にたいと思わなくなった頃だったから地獄への道からわたしは外れようと思ったんだけど、今でも君は一緒に死んでくれるだろうかと不安になる。

わたしのこの気持ちは、愛と呼んでいいのかな。

 

ハルシオン

もう無理なので全部終わらせます。

 

全部どうでもいいくせに何も諦められない自分が嫌いでした。

リスカをやめられたと思ったら睡眠薬を何倍も飲んで現実のシャットアウトに依存する自分に絶望しました。

自分の全てが許せなくなりました。

 

いままで出会った人のこと、みんな大好きです。

憧れと本物の愛を自分で見極められずに傷付けてごめんなさい。いまどうしてるの、生きてるのかな。

 

もう何も感じたくないし、考えたくない。いままでありがとう。迷惑かけて、無責任で、ごめんなさい。

 

俺の事困らせないで:そんなこと言うやつは多分わたしのこと好きじゃないよね

 

俺を元気にして:自分でできないから投げやりにひとに責任転嫁して、できなかったら責めるみたいなの理不尽だよね

 

6万のiPadフル装備で買え:それで良心が痛まない貴方の心やばくない?

 

助けて:その一言でひとがどれだけ重荷に感じるか分からないのすごいよ

 

奢ってとか昨日の食材代の代わりに奢ってとか貢げとかなんなの?わたしはあなたの臨時のお財布ですか?

2020.8.26.(2020.8.28.)

晴れてた、暑かった。朝晩は涼しい。さすが仙台。こんな快適な気候に慣れてしまったら九州に帰れるんだろうか。

 

過去のブログを読み返して、なんだか幼かったんだなと思った。いまは前よりも、よく言えば大人になったと思う。悪く言えば、色々なことに諦めがついて、考えるのをやめて、忘れることが上手になった。

 

死にたいとか消えたいとか、そういう思いが無くなった訳じゃない。でも大きな声でそれを喚き立てる程もう幼くない。